夏のある日、ジュリア一家とともにデボンにいるお祖母ちゃんとお祖父ちゃんを訪ねました。入り江を見ながら坂を上
っていくと次第に家が少くなくなり、自然のまだ残る別荘のような場所に家は建っていました。
庭には花が咲き乱れ、手作りの木で作られたプールで、私たちは歓声を上げて遊びました。夕方になって、私は与え
られた別棟の部屋でウトウトとしていた時、ジュリアが散歩に誘いにきましたが、どうにも体がだるかったので断りま
した。しかし、それから30分ほどするとだいぶ楽になり、せっかく来たのにきれいな景色を見ないで帰るのはもったい
ないと思いはじめ、彼女たちの行き先もわかっていたので後を追うことにしたのです。来た方角とは反対方向に一本
道が続いていて、先にはまた入り江がありました。どうせ道はこれしかないのだから行き違いになることもありませ
ん。静かで澄んだ空気の中を鼻歌まじりに歩いて行きました。やっと道の先が開けてきたと思ったら、目の前には海
がひろがっていました。
小さな入り江の先がすぐそこにも見えて、細い道の両側ははかなり急な斜面になっています。なんだかワクワクしな
がら彼女たちの姿を追い求めて足早に歩を進めると、そのうちにいくつもの木で作られたゲートが登場しました。私は
ゲートを開けては閉めているうちに、なぜ必要なのかがわかってきました。ちらほらとそこここに羊の姿が見え始めた
からです。「ヤッホー!いいところね」と声をかけましたが、それは次第に「大丈夫だからね。ただ通り過ぎるだけだから
…」というセリフに変わってきました。なぜなら、だんだん羊の数が増えてきたからです…。
とうとう、私の足が止まりました。気がつけば100頭以上の羊たちが、道を挟んだ両側の斜面で私をじっと見ていまし
た…。問題はゲートの前にデカいのが一頭いる、ということでした。害のある動物ではないし、牛のような角もない。
野生ではないはずだから人間も見たことがあるはず。知らない間に羊に向かって一生懸命話かけ、脇の下には汗を
ビッショリかいている自分に気がつくと同時に、ボスらしい羊が突然一声いななきました。すると、すべての羊が動き
始め、こちらに向かってきたのです。足はすでに他人の足になっており、言うことをきかないばかりかガタガタと震え
始めました。おまけに引き返そうと後ろを見ると、すでに何頭かが本人の意思でないにせよ、とうせんぼをしているで
はありませんか。たとえ羊でも、多勢に無勢。ああ、ここで羊に食われたら、きっと変な日本人の記事が新聞に載っ
て、皆の笑いの種になるんだろうな〜などと、こんな時にかぎって変なことを考えるものです。他の方法が思い浮か
ばなかったので、最後の手段として、あらんかぎりの力を振り絞って大きな声で叫ぶことにしました。
「ジュリア〜! ジュリアー〜!」
「ここよ〜、どこにいるの?」はたして幸運にも返事がありました。しかし、それはかなり遠いところからで、姿も見えま
せん。それでもこれで助かったという気持ちでいっぱいでした。パニックになっているにもかかわらず、とっさに英語で
訳を説明していると、やがて反対側の突端にジュリアたちが姿を現しました。思いっきり手を振ってよく見ると、どうや
ら皆は笑い転げているようす…。けしからん! 笑いごとじゃないっつーの。
とにもかくにも、団体でいる動物があんなに怖いものだということを初めて知りました。それからしばらくは子供たちに
もからかわれ、散々な目に合いました…。
昔からキルトスカートが大好きでいくつも持っていましたが、やはり本場のキルトを買って帰らなくっちゃと思っていま
した。五月、ロンドンで秘書の学校に通っている日本人の友人と一緒に旅行に行くことに決めました。ロンドンから電
車にゆられて楽しい会話を交わしながら窓の外を見ると、可愛い子羊たちがたくさんいました。エジンバラに着くと、
まずインフォメーションセンターでB&Bの予約。あらかじめ宿の予約はしないことにしていました。イギリスにはBed と
Breakfastだけを提供してくれる可愛い宿がたくさんあり、地方に行けば行くほど値段は安く人も親切で、どこかに必
ず泊まれることを知っていたからです。エジンバラ城を見学して町をぶらついて一泊すると、いよいよインバーネスに
向かいました。そうです、ネッシーを見たかったからです。
そこのB&Bでネス湖の話をすると、ちょうど良いツアーがあるので参加してみたらと言われました。水を研究している
学者の先生が案内をしてくれるというもので、日本語も少しできるということから私たちはすぐに予約を入れてもらいま
した。次の朝、集合場所に行ってみると、すでに各国からの観光客が集まっており、先生は一生懸命になにやらダン
ボールをマイクロバスに運び込んでいました。ひとりひとりの名前を聞き、手の甲に書き込んでは顔を覗きこみます。
どうやら、それが彼の名前の覚え方のようでした。バスが出発しネス湖のほとりに着くと、私たちは砂浜に座って先
生の講義を聞きます。かなりユーモアの入ったおもしろい話でした。ネス湖はかなり広いので、もちろん向こう岸は見
えません。まるで海のようで、こんなに大きければ深いところに何がいてもおかしくない、というのが第一印象でした。
すっかり皆でくついだところで、先生はこう言います。「さて、写真の時間です。好きなだけどうぞ」そして、やおらポケ
ットから何を取り出すのかと思ったら、小さなプラスチックのネッシーのおもちゃでした。「こっちからの方が湖が入る
よ」とか「もう少し下げて」とか、とにかく変…。バカバカしいとわかっていながらも、結局全員カメラに収めました。
しかし、このツアーの醍醐味はこれからです。
ネッシーです…。
再びバスに乗る頃にはもうお昼。お腹の虫が鳴り始めます。一日ツアーで昼食付きなので、私たちはいつどこで食べ
させてくれるのか、どんなスコットランド料理が出るのかワクワクしていました。30分ほど走ると前方に大きな建物が
見え、どうやらレストランだとわかると皆が降りる支度をし出しました。すると、先生は道の反対側を指を指してこう言
います。「そこにトイレがあるから、なるべく皆行ってきて下さい」「えーっ、ここじゃないの?」それぞれの国の言葉で異
口同意。しかたがないので言うとおりにして、再びバスへ。それからは行けども行けども止まる気配はありません。ど
うやら山の上の方に向かっているらしく、まわりはどんどん淋しくなります。友人が一言。「さらわれないよね」
ブレーキの音が鳴り響いたのはそれからかなり過ぎた後でした。問題は、止まったところには山のど真ん中でまわり
に何もないということ。先生はそんな皆の心中をおもしろがっているようにさえ見えました。「○○さん、これね。△△
君、それを洗ってきて。向こうに水があるから」見事に名前を覚えている…なんて感心している場合ではありません。
こんな木々の茂ったこんなところで、いったい何をしようというのか。その時私の名前が呼ばれました。「私と一緒に
来て」え、どこへ?…私だけ?先生はお構いなくドンドン歩いていくと、突然立ち止まりました。「ここにしよう!」「は?」「一
緒にここの草をむしってくれ。それから小枝を集めて」「…」肉体労働に選んでくれてありがとう。やりますよ。スポーツ
してるってやっぱりわかるのかな、などと思っていると「オーケー、皆を呼んでこよう」「はあ…」そして、ようやく火がつ
いて鍋がグツグツいってきた頃には、すでに少し日が翳ってきた時間でした。それならそうと、初めに言ってくれ。
大きな鍋を囲んでいろいろな国から訪れた皆が車座に座り、フーフー言いながら郷土料理を楽しむ。そんな体験はま
たしたくてもきっとできないでしょう。様々な野菜とハギス。味付けなんかいりません。すべてのものからエキスが溶
け出したこの上ない高級料理でした。もしスコットランドに行く予定のある方は是非彼のツアーを体験して下さい。私
も機会があれば、もう一度体験してみたいと思っています。
ただし、五月といってもすっごく寒かったです。ましてや山の上…。真冬用の長いジャケットでも震えました。もっと暖
かい時期なら鍋は美味しくないし…。
ネス湖と古城
帰りには、どうしても寄りたいところがありました。「嵐が丘」に出てくるヒースの丘を是非この目で見たかったのです。
私は子供の頃からずっとヒースクリーフに恋していました。物語はかなり辛らつですが、激しい愛情を持つ彼になぜ
か惹かれました。エミリー、シャーロット、アンのブロンテ姉妹の育った家が博物館として、ハワースにあります。前方
に広がる荒野を見た時、胸がいっぱいになりました。時間の経つのも忘れて、しばらく動けませんでした。「嵐が丘」
はエミリーの書いた唯一の小説ですが、生きている間は評価されなかったようです。30才で亡くなっているので、短
い人生だったと言えます。たくさん映画化されていますが、やはりピーター・コズミンスキー監督、レイフ・ファインズと
ジュリエット・ビノシュ主演のの作品が一番好きです。そう言えば坂本龍一が音楽を担当していました。
ブロンテ姉妹の住んでいた家
思いを果たして再び汽車に乗り、次はストラトフォード・アポン・エイボンに向かいました。シェイクスピアの町です。こ
れ以来、私はこの町がすっかり気に入り、イギリスに行くたびに必ず訪れます。そして、オックスフォード。不思議の
国のアリスの可愛いショップで買い物をし、大学を見てまわりました。ここで一泊することにしてインフォメーションで尋
ねましたが、運悪くどこも満員。まさかと恐れていたことが起こりました。
しかたなく、町に出て探すことにし、一軒一軒聞きましたがやはり空き部屋はありません。空はすっかり暗くなってし
まいました。すると、やっとこさっとこ空いてるというところを見つけて、ホッとため息。結構疲れていたんです。根暗そ
うな男のオーナーと同様、中に入ってみると今までのところとは大違い。ここ、本当にB&B? それでも疲れに勝てず、
ベッドに倒れこみました。しばらくして、トイレに行ってみると…これは言葉ではとても表現できないくらいヒドイ。とたん
に私は泊まる気になれなくなってしまいました。これなら野宿の方がマシ。友人にトイレを見せて説得すると、渋るオ
ーナーからお札をもぎ取るようにして外へ飛び出しました。さて、これからどーする…。
来る時に尋ねたところへもう一度戻り、どこか紹介してくれないか聞いてみることにしました。どうしてもダメなら電車
に乗って違う町で探すしかありません。私たちはもう口をきく元気もありませんでした。すると、さっきの宿の顛末を聞
いたそこのおばさんは目を見開いて言いました。「えっ、あそこに泊まろうとしたの? だめよ、絶対。わかったわ、今電
話で聞いてあげるから」その…絶対という言葉の裏に何が隠されていたのか聞く機会はありませんでしたが、ともか
く変なトラブルは避けられたようでした。こういう時、私の勘は結構役に立つみたいです。話を聞くと、一軒見つかった
けどここから離れているので、すぐに車で迎えに来てくれるということ。ラッキーでした。助かりました。命拾いしまし
た。
車で15分ほど行くと、いつもの可愛いB&Bに到着。お腹が空いているだろうと温かいスープを出してくれ、お風呂に入
り、フカフカのベッドで死んだように眠りました。次の朝も駅まで車で送ってくれ、私たちは知ってるかぎりの英語で感
謝の言葉を述べました。日頃からふたりで十分気をつけているつもりでしたが、女ふたりの旅ではやはり宿は予約し
ておいた方がよさそうです。
私は精神的な病とは無縁の人間だと、たぶんまわりからは思われています。「いつも元気だね」とか「いつもニコニコ
してるね」とよく言われるし、自分自身でも自分を見失うことはないと思っていました。
きっかけは、ある日英語学校の友人たちと地下鉄に乗っている時でした。珍しいことではありませんが、急に止まり、
車内が真っ暗になったのです。まもなく電気はつきましたが、なんのアナウンスもなく止まったままでした。つい前の
日に「地下鉄で何かあったらこんなに狭いトンネルじゃどうすんのかねー」と話していたことを思い出すと同時に、汗が
噴出し、じっとしていられなくなりました。窓を叩き割ってでも、とりあえず外に出たいという気持ちをどうにか押さえ、
しばらくして駅に到着した時には心身ともにクタクタでした。降りてしまえば意外になんともなく、そのまま遊びに出か
けました。しかし、それからでした。今日は何かで出かけなければならないという日にかぎって、朝目が覚めた時から
気持ちが悪いのです。なぜだか自分ではわからず、途方に暮れました。たしかに地下鉄に乗る、ということはあれ
以来良い気分ではありませんでしたが、それ以外に嫌な理由もなく、頭を傾げながら駅に向かいました。しかし、
気持ちは「早く行くよ」と言っているのに、足は近づくにつれてドンドン重くなり、憂鬱な気分になることだけはわかりま
した。やっとの思いでホームに立ち、またやっとの思いで乗りこんで、座席に座っていつものように本を読もうと広げま
したが、文字は右から左へ移動するだけ。私の神経は全部ドアに向かっていました。「あ、閉まっちゃう」地下鉄が
走り始めると、今度は「もう出られないぞ…」と誰かが囁きます。そしてまた汗が出てくるのです。我慢ができずに次
の駅で降りると、またなんでもなかったように気分が良くなります。
まず最初に思ったことは「チキショー」…でした。
身体が自分と違うものになったようで、コントロールがきかなくなっていました。
それでも、やらなければならない、行かなければならないところがある以上、
どうにかしなければなりません。それからも「大丈夫」と言い聞かせながら
何回か試しに乗ってみましたが、やはり結果は同じでした。そのうちに
「乗りたくない」という自覚が出てきます。そこでバスに変えることにしましたが、
やはり同じでした。唯一、車だけはまだ乗ることができました。それは、いつでも
止まって降りられると思ったからです。これは閉所恐怖症とは違うということは、なんとなくわかっていました。小さい
時から押入れの中や狭いところは逆に好きな方でしたし、乗り物も大好きでした。それに突然閉所恐怖症になるなん
てことはないだろうと思ったからです。
その頃、すでにスカッシュのレッスンやクラブの試合などのスケジュールがいっぱいで、ほとんど毎日外出しなけれ
ばなりませんでした。幸運にもメンバーになっていたスポーツクラブは歩いて行けない距離ではなかったので、それ
から帰国するまでずっと徒歩で通いました。往復一時間半の距離は、行きは良い良い帰りは怖い…練習で疲れ、
シャワーを浴びた後はひどく遠く感じたものです。寒い日は家に着くと髪の毛が凍っていたほどでした。時々、時間が
ある時はジュリアが車で迎えに来てくれましたが、申し訳けなく情けない思いでいっぱいでした。
ある日のこと、家の近くのテムズ川にかかる橋の上を歩いていた時のことでした。川をボーッと見下ろしていた時、
急にそこで大声で叫びたい衝動にかられたのです。それはすでに喉元まで出かかっていました。しかし、ふと5mほど
先を見ると、バス停があり何人もの人が立っているのが目に入りました。急に羞恥心が出て、結局そのまま橋を通り
過ぎてしまいました。今でもその時のことをたまに思い出しますが、もしあの時なりふりかまわずに大きな声で
「バカヤロー!」と一言口に出していたら…たぶん症状は改善されていたか、少なくともあれ以上悪くなっていなかった
かもしれません。なぜなら、やっと気がついたからです。これはストレスのせいだったんだ…と。そしてすでに自律神
経自体がやられていたのです。もしそれが日本であったなら、きっと早く誰かに相談もできたし、なんらかの方法を見
つけられたかもしれませんが、ただでさえ「しっかりしなくっちゃ」と自分をキープし続けている毎日の中で、ストレスに
負けている自分を認めることでさえ、私にとってはとても難しいことでした。しかも、外見は普通となんら変わらないの
ですから、他人に理解してもらえるなどとはとても思いませんでした。きっと帰国すれば治るに違いない…と、それ
だけを信じて残りの日々をなんとか乗り越えようと思いました。
ところが日本に帰ると、症状は一気に悪化してしまいました。電車に乗るどころか家から一歩も外に出られず、常に
神経が張りつめた状態でいつも疲れていました。元来医者嫌いで、病院に行くなんてことはまず考えず、薬漬けに
なることを何よりも恐れていました。そこで外が暗くなるのを待って本屋に行くと、自分の症状が何なのかを知るため
に何冊も本を買いました。当時はまだ今ほどその類の本は多くはありませんでしたが、だいたい状況を掴むことが
できました。自分の性格や環境などを考え合わせても、たぶん不安症のたぐいに違いないと確信しました。自分の
中でストレスが溜まっているのに気がつかない、自分を許せない、完璧を目指す…そんな人がなりやすい病気。。だ
いたい自分を許す、という自覚自体、私にとっては未知のものでした。私は自分が怠け者で未熟な人間だということ
を一番よく知っているからです。自分を許す…今はこれを実行するしかない、そう思いました。肩の力を抜くことを
覚え、もっと本当の意味での自分を知ること、それが必要でした。
そしてしばらくは家で休養を…と思っていましたが、帰国した時には知らない間にすでに就職先がほぼ決定していた
のです。すぐに面接や仕事が始まりました。今度はとても徒歩で行ける距離ではなく、またまた苦難の往復が始まり
ました。二、三時間の余裕をもって、途中で降りても間に合う時間に家を出なければなりませんでした。生徒の顔を
見てコートに入ると何もかも忘れて集中できるので精神的には問題はありませんでしたが、それよりも現場に着いた
時に身体がすでに疲労している方が問題でした。レッスンが終わればすでに頭の中は帰りの不安でいっぱいです。
ついに、自分をしばらく甘やかす決心をしました。仕事は週に三日だけでしたから、思い切ってタクシーで通うことに
したのです。先のことを考えれば良い案だとは思いませんでしたが、当時の状況ではこれが精一杯でした。それでも
途中でタクシーから降りてトイレに駆け込んだこともありました。自分で車を運転したら…と人に言われましたが、
道の真ん中で車を放り出して外に出るわけにもいかないし、この状態ではちゃんと運転ができるのかどうかも不安で
した。しかし、仕事自体がとても楽しく、またスタッフにも恵まれていたので、なんとか10年近くも続けられたのだと
思うとともに、心から彼らに感謝しています。
その間、巷で同じような症状の話を耳にするようになり、本も増えているのに気がつきました。
普通のことができないだけでなく、なかなか人に理解してもらいにくい…こんな厄介なものは
ありません。初めの頃は自律神経を鍛える方法などもやってみましたが、目をつぶっただけで
リラックスするどころか心臓がバクバクいっていたものです。
テレビに駅のホームの画像が映るだけでも気分が悪くなりました。それでも薬はどうしても
嫌だったので、何かそれ以外のものがないか常に暗中模索していました。心の中では
「いつかきっとこれも思い出のひとつになる」と信じて。当時はありませんでしたが、今ではいざとなれば催眠療法な
どもあると聞いて、だいぶそれだけで気が軽くなりました。昔の記憶が薄れていくにつれて、次第に良い方向に向か
っていることにも気づきました。今ではほとんど治っています。何年間も自分を狭い世界に閉じ込めて無駄に過ごした
などという後悔はありません。違う世界に入ったことによって、見られなかったこと体験し得なかったことをたくさん経
験したのですから。イギリスでは、それこそ一生かかっても得られない何かを得ました。もしその代償だったのなら軽
いものです。そして、これも私の人生の一部なのです。
このような話は自分の恥だという思いはまだあります。しかし、自分で何かを経験するということは、いつか人の助け
になることだとも信じています。同じような体験をしていれば、もしそのような人と出会った時にひとつでも適切なアド
バイスができるのでは…きっとそのために生きている間にいろいろな経験をしなければならないのだと感じています。
もし、あなたが人に言えずに同じような症状で悩んでいるのなら…決して自分だけだと思わないでください。そして、
普通に皆ができることができないと自分を責めないでください。そして…少しだけ自分を可愛がってあげてください。
それは決してわがままでも自分を甘やかすことではないのですから。本当の自分を見つけ出して、それからまた成長
していけばいいのです。
本当の自分を知ること…これは生きている間の人間の課題だと思います。その機会を持てたことに、私は心から
感謝しています。
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